下村裕篤について

プロフィール・経歴〜企業人としての職歴18年

下村裕篤プロフィール写真

下村 裕篤(シモムラ ヒロアツ)
1957年11月7日 生まれ
株式会社フューチャー・ビジョン 代表取締役
国際コーチ連盟(ICF) プロフェッショナル認定コーチ


  1. 企業人としての職歴18年
  2. 専門家としての職歴16年
  3. コーチとして、コーチの教育者として
  4. ひとりの人として

企業人としての職歴18年

人材採用、社員教育、給与評価制度設計を主力商品として、企業の人事部を顧客にコンサルテー ション。延べ18年間で2000社程の経営者および人事に課題ヒアリングと提案を行いました。

創業半年の企業で営業職からスタート

新幹線が止まる新大阪駅の近くにある2DKほどのマンションの一室が当時の職場でした。会社は創業して半年、社長と事務女性一人だけがいる生まれたての組織でした。当時、私は結婚を予定していて「大切な人(妻となる人)を守る」という気合に溢れていた時期で、人生で初めて全力で仕事に取り組んでいました。そのせいか、入社してすぐに業績をあげて半年もたたないうちに業界でもトップクラスの成果を出していました。

成功の秘訣は3つあった

仕事は企業の人事部を相手に採用広告をとってくるもので、毎日新規開拓を行っていました。

私が短期間で成功した秘訣を考えてみますと、まず「うまくやっている人のやり方を完全に真似る」ということでした。当時は自社の社長が極めて優れた営業マンでしたから、その一言一句をメモしてすぐに実践で使うということを繰り返していました。

成功の秘訣の二つ目は「顧客が望むことを成し遂げる」ということでした。我々の顧客が望むことはなんと言っても「採用の成功」でした。私はこれを成し遂げるためには契約を頂いた後の仕事が最も重要だと考えて、「採用の成功」を求めて手段を考え抜きました。

3つ目の秘訣は「全力で取り組む」ということでした。先の文でも触れましたが、当時は結婚を控えてヤル気が最大になっていました(笑)ので朝から夜まで集中して取り組み続けていました。強い動機があると人は最高のパフォーマンスを発揮するものだと自分事ながらに思いました。

マネージャーとしての悪戦苦闘

営業職というプレイヤーとしては成功したものの、管理職としては苦しいスタートでした。マネジメントが何をすることなのか全く知らなかった私は、プレイヤーとしての自分の仕事をさらに頑張っただけで部下を見ていなかったのだと思います。

マネージャーになって3ヶ月もしない時期に部下がヤル気を失い退職を申し出てくる状態に陥りました。チームの売上の80%をマネージャーの私が獲得する状態はチームとは言えず、私だけが走り回り部下を放置していたのでしょう。

そして6ヶ月ほどして私は「リーダーの役割はできません」と白旗を挙げて 退社することを申し出ました。

部下のことを最優先すると好転し始める

振り返りますと、あの時に教えを請うことであったり書籍に学ぶことをしていれば 修正できたかもしれません。私は退職を申し出てからは開き直れたのか、残された期間は部下のことを最優先にしてやってみようと決めて、部下に同行し、指導をして、部下の契約を獲得していきました。

「仕事の進み具合」や「困っていること」等に関する部下との対話の時間もとり2カ月程すると、部下の仕事によってチームの目標を達成できるようになっていきました。この経験で学んだことは、「プレイヤーとマネジメントの仕事のバランスをとる」「部下のことを思い、部下のために時間をとる」、そして「知らないことがあたくさんある、学ぶことが必要」という3つでした。

そして、一度は退社希望を口にした私ですが、「部下のことを最優先する」ことによる小さな成功体験のおかげで、退社せずに仕事を続けることができました。

後輩に追い越される屈辱

部下を指導育成したりチームとして成果を出すといった、マネージャーとしてやるべき役割を担うことができなかった私は、多数の部下をリードするだけの影響力を持つことができませんでした。そして、やがては、後輩とポジションが逆転する立場にまでなってしまいました。

適当な気持ちで仕事をしていたならば、「まぁ、こんなこともあるか」と見ないようにすることもできましたが、一生懸命にやった結果でしたから大きな屈辱を味わい、自分の中で気持ちの折り合いをつけることにとても苦労しました。

その後、悔しい思いやヤル気の低下に悩みながら、2-3年位かけて任された部門の実績をあげることで復活することができました。ふりかえってこの経験で学んだことは、仕事人生は山あり谷ありだという「長期的視点」と、 「耐える力」というものの大切さだったように思えます。

人前で話す恐れ

ブログ「話すことが苦手なマネージャーへ」で具体的に書いておりますが、 幼いころから経験してきた「多数の人前で話すことへの恐れ」は、この時期にも解消しきれてはいませんでした。

当時は週に1回くらいでしょうか、全体朝礼という行事があり、多い時には100名程の人前で「訓示」のようなことを話すことがありました。

私は話す前にはこっそりとトイレに入り、気持ちを落ち着かせて話す段取りを組み立てる習慣を持っていました。それでも、うまく話せずに自己嫌悪に陥る自分に怒りさえ感じていたことを思い出します。

「人前で話す恐れ」という問題は長い年数をかけて解消できましたが、この経験をいまになって振り返りますと、忍耐力や持続力が培われたとても価値ある経験だったと思います。

マネジメントのいいかげんさで大失態

お客様に対する仕事で大失態を演じたこともあります。

当時としては大きな作業ボリュームで、複数の協力会社と共に取り組むプロジェクトがありましたが、協力会社に仕事を任せて細かな進捗管理を行っていなかったことが理由で、納品日直前になって予定作業の半分にも至っていないことが発覚したのです。

私は怒りも露わに現場に出向き、協力会社のスタッフと共に徹夜で作業を行いましたが、間に合うはずがありません。頂戴していた契約金を全額返済して、関係者に土下座をしてお詫びを続けました。

進捗管理をおざなりにすることの怖さを痛みを伴って経験しました。

閃いたらすぐに動く

いつもと同じように職場で仕事の準備をしているある朝、社長から内線がありました。

インターネットによる情報提供サービスに関する新聞の記事(当時はインターネットという言葉が初めて新聞に載った時期でした)を私に見せて、「すぐにコンタクトをとれ!」という指示を出しました。

それから1~2か月後に私はアメリカに視察に出かけ、日本に戻ってすぐにインターネット事業の準備室を立ち上げていました。これらは私の判断ではなく社長の意思決定の速さによるものでした。

この事業は5年近く赤字を続けましたが、その後インターネットの普及に歩調を合わせて文字通り爆発的な成長を遂げました。「すぐに動く」ことで、やがて信じられないほどの違いを生み出したのです。

成長する会社は経営者が早く変化する

私の直属の上司であった社長は、自らが起業した会社を上場に至るまで成長させた有能な経営者でした。

会社の拡大に対応して(或いは拡大を想定して)自分の役割を次々と変化させていました。創業時は優秀な営業マンとして顧客先を走り回り、私が幸いにその役割を担えるようになった1年後には人材の採用に注力し、3年目からは新規事業を次々と立ち上げさせ、その後は経営管理とトップセールスに注力していきました。

同業の経営者と較べてその役割の変化がとても速かったのです。

お客様と協働する喜び

私たちの仕事は、お客様である企業のために募集広告を出し、説明会を開き、選考方法や面接などの入社に至るまでの仕組みをつくり運営をすることでした。

大量の人材を採用する企業とは、まさに協働のプロジェクトでしたから、目的を同じくする仲間のような関係になっていました。 お客様に対するエンゲージメント(愛着心、きずな)がとても高く、この大切な人たちのために何としても目的を達成したいという強い思いを持ちながら仕事に向かうことができました。

会社の部下や仲間を愛おしく思っていた

私が勤めていたこの会社はとてもよく働く文化があり(今では批判が出るでしょうが)、朝から夜遅くまで結構なハードワークをする職場でした。

その中で部下や仲間と泣いたり笑ったりしながら目標を追いかけることや、仕事を終えて朝まで飲んで騒いでまた仕事といった日々は、かなりたいへんではありましたが楽しくもありました。そして、私はそのような時間を共にする部下や仲間をとても愛おしく思っていました。

専門家としての職歴16年